今日の読書 図書館危機/有川浩
現在の日本では、徐々に言論の自由を制限され、偏った情報による世論誘導が行われる危惧を感じざるを得ない状況だと思います。
特定の、出自、性別、民族、宗教、国籍、職業の人に対し明らかに不正があったとして、正論で批判したとしても、それがいつの間にか差別問題にすり替えられて、批判的な発言をする事すら封じようとしている物に対して、枚挙に暇が無いのではないかと、頭をよぎった事がある人はいるでしょう。
また、そういった差別に問題をすり替えるような勢力というものは、正当な批判に対して圧力かけるのが常套手段であるが故に、報道側がそういったものへのわずらわしさから、いわゆる自主規制という名の言葉狩りを許し、それが故にかえっておかしな表現しか使えなくなってしまったり、本来は差別とは無縁であるがはずの言葉を、自主規制という実績によって、差別語であったという既成事実化を進めてしまったりと、本末転倒な事が起きているのではないかと疑問に思う人も多いのではないでしょうか?
本著は図書館戦争シリーズ第3弾で、文庫化された事で再読しているのですが、そう言ったものに対する強い危惧というものを前面に出した作品が収録されています。
「床屋」という言葉が放送禁止用語設定されていて、実家が床屋の友人がその事実を知った時に、憤慨したという事をきっかけにつくられたお話が、非常に印象に残りますね。
本人たちが差別であるなんていう事を全く意識した事すらないものを、横からやってきた誰かの指摘で、いつの間にか差別語にされてしまう。
非常に怖い話だと私は思うのですが、あまり一般的には流布されていないのではないかと思います。
私は差別を助長するような事を肯定する気持ちは全くありません。
しかし、差別という言葉を武器に、やりたい放題するような輩は心底憎みますし、正直この世から消えて欲しいとすら思います。
なにせ、そういう輩こそが、この世から差別が無くならないで欲しいと心底思っている存在であり、一般人の良心を利用し、自分が有利になる事しか考えていないからですね。
むしろ、差別をでっちあげている証拠こそが、差別用語の拡大解釈なのではないかと。
図書館戦争シリーズは、こういった問題点に対して、深刻なだけではなく、エンターテインメントとして誰にでも読みやすくまとめている良シリーズであると思っています。
シリーズ本編は4冊刊行されていて、今回は起承転結の転にあたるもので、まさしく危機といっていいものになっています。
実際の日本は、まだこのシリーズの世の中と比べて自由は制限されているわけではありません。
しかし、言論の自由という問題以外では、非常に似通っている、自衛力という問題に関しては、片手落ちの非武装の危険性というものが嫌というほど突きつけられます。
武器があるから紛争が起こる。
全くの暴論であると斬って捨てる気は一応ありません。
しかし、本著の中で行われる、図書隊が武装するから戦闘が行われるという一方的な論理、それでいてて対抗勢力であるメディア良化委員会に関しては同じ要求をぶつけないという見事なまでの片手落ちぶりは、自衛隊を一方的に悪者にし、自衛隊があるから戦争が行われるという視野狭窄した片手落ち理論と見事な相似形をしています。
というか、現実を元ネタにしているからこそでしょうが。
今、日本が軍事力を持たなければ世界平和が訪れると、本気で考えている人がどれだけいるのかはわかりませんが、一読してみて片手落ちしている論理であると自覚してもらえればいいなと思ったり、狂信者には届かないだろうなと思ってみたり。
文庫版には作者と児玉清さんとの対談3回目が載っているのですが、表現規制の問題、また表意文字と表音文字の入り乱れている日本語という特性を大事にする事の必要性など、興味深いものになっています。
亡くなる前にこの対談が出来ていて良かったなと改めて思いますね。
特定の、出自、性別、民族、宗教、国籍、職業の人に対し明らかに不正があったとして、正論で批判したとしても、それがいつの間にか差別問題にすり替えられて、批判的な発言をする事すら封じようとしている物に対して、枚挙に暇が無いのではないかと、頭をよぎった事がある人はいるでしょう。
また、そういった差別に問題をすり替えるような勢力というものは、正当な批判に対して圧力かけるのが常套手段であるが故に、報道側がそういったものへのわずらわしさから、いわゆる自主規制という名の言葉狩りを許し、それが故にかえっておかしな表現しか使えなくなってしまったり、本来は差別とは無縁であるがはずの言葉を、自主規制という実績によって、差別語であったという既成事実化を進めてしまったりと、本末転倒な事が起きているのではないかと疑問に思う人も多いのではないでしょうか?
本著は図書館戦争シリーズ第3弾で、文庫化された事で再読しているのですが、そう言ったものに対する強い危惧というものを前面に出した作品が収録されています。
「床屋」という言葉が放送禁止用語設定されていて、実家が床屋の友人がその事実を知った時に、憤慨したという事をきっかけにつくられたお話が、非常に印象に残りますね。
本人たちが差別であるなんていう事を全く意識した事すらないものを、横からやってきた誰かの指摘で、いつの間にか差別語にされてしまう。
非常に怖い話だと私は思うのですが、あまり一般的には流布されていないのではないかと思います。
私は差別を助長するような事を肯定する気持ちは全くありません。
しかし、差別という言葉を武器に、やりたい放題するような輩は心底憎みますし、正直この世から消えて欲しいとすら思います。
なにせ、そういう輩こそが、この世から差別が無くならないで欲しいと心底思っている存在であり、一般人の良心を利用し、自分が有利になる事しか考えていないからですね。
むしろ、差別をでっちあげている証拠こそが、差別用語の拡大解釈なのではないかと。
図書館戦争シリーズは、こういった問題点に対して、深刻なだけではなく、エンターテインメントとして誰にでも読みやすくまとめている良シリーズであると思っています。
シリーズ本編は4冊刊行されていて、今回は起承転結の転にあたるもので、まさしく危機といっていいものになっています。
実際の日本は、まだこのシリーズの世の中と比べて自由は制限されているわけではありません。
しかし、言論の自由という問題以外では、非常に似通っている、自衛力という問題に関しては、片手落ちの非武装の危険性というものが嫌というほど突きつけられます。
武器があるから紛争が起こる。
全くの暴論であると斬って捨てる気は一応ありません。
しかし、本著の中で行われる、図書隊が武装するから戦闘が行われるという一方的な論理、それでいてて対抗勢力であるメディア良化委員会に関しては同じ要求をぶつけないという見事なまでの片手落ちぶりは、自衛隊を一方的に悪者にし、自衛隊があるから戦争が行われるという視野狭窄した片手落ち理論と見事な相似形をしています。
というか、現実を元ネタにしているからこそでしょうが。
今、日本が軍事力を持たなければ世界平和が訪れると、本気で考えている人がどれだけいるのかはわかりませんが、一読してみて片手落ちしている論理であると自覚してもらえればいいなと思ったり、狂信者には届かないだろうなと思ってみたり。
文庫版には作者と児玉清さんとの対談3回目が載っているのですが、表現規制の問題、また表意文字と表音文字の入り乱れている日本語という特性を大事にする事の必要性など、興味深いものになっています。
亡くなる前にこの対談が出来ていて良かったなと改めて思いますね。
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