今日の読書 中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史/與那覇潤
中国化する日本という事で、日本が川に豚の死骸が当たり前のように流れてしまうような環境状態になるとか、特定の国民を狙って暴動が起こるとか、その製品をつかっているというだけで、ボコボコされるとか、そういうヒャッハーな世界になるとか。
残虐な中国共産党による軍事進攻によって、日本が制圧されてしまい、中国日本省にされてしまうという悪夢が訪れるとか、そういうたぐいの物を、どうしても想像してしまいますが、とりあえずそういう事を扱った物ではないという事で。
日本と中国、少なくとも民度であるとか、言論の自由であるとか民主化とか、概ねの状況から考えて、中国の方が日本よりも遅れていると普通の日本人は考えると思います。
しかし、遅れているはずの中国の方が、日本を抜いて経済2位になったという事実を無視するわけにはいかないと、それは、粉飾があるとか、払うべき著作権や特許料を無視したからとか、単純に人口が多いからとか、いくらでも説明が付きそうな所があるとはいえ、少なくとも完全な捏造扱いするにはむりがあるだけの規模の国家になった事は認めないわけにはいかない、そこを踏まえて、遅れているはずの国に追い抜かれたのかを分析する上で、実は進んでいるはずの日本の方が遅れている国であったという視点を強調するのが、本書になります。
どれくらい、中国が進んでいて、日本が遅れているのか、それは日本が西洋勢力からの影響で近代化したというのではなく、実はこのいわゆる近代という時代そのものが、出発点は中国の宋の時代の事であると。
初期近代、近世を完成させたのが宋であり、日本は逆にこの時代より前に遣唐使廃止以降、中国の社会制度を遠ざけたせいで、近代化が遅れたと。
そして、近世の特徴が今現在の世界全般に見られる傾向であり、日本はそれに対応できていないからこそ、どうにも常に何か不満を抱えながら我慢しないといけない社会になていると。
近世の最大の特徴は、科挙制度を取り入れた事で、身分制を破壊したこと、それによりいわゆる新自由主義経済的な、自己責任社会、失敗した時はセーフティーネットを地域社会に求めるのではなく、個人的な血縁に求め、流動性の高い社会にしたという事。
その逆が日本であり、身分制はしっかりと江戸時代まで残り、地域社会が強いムラ社会型になり、江戸時代の身分制度のいびつな形、武士階級は階級は高いけれども貧しく、商人は金はあるけれども身分は低いという、必ず何かしら満足いかないものが残るという形になっていると。
これを、基本ベースに中国が近世に移った後の日本の歴史をたどりながら、それぞれの問題点をチェックしていくという流れになっています。
しかし、読んでいて思うのは、歴史は新しくなるほど進歩していくという考え方の否定がより強く説明されているなぁという事と、日本の現在の問題点というか、いいとこどりをしようとして失敗しているという歪みは分かるものの、じゃあ近世化しても、それでよくなり得ないとしか思えないなぁという事でしょうか。
好き嫌いは別として、現在の日本人の倫理観はムラ社会をベースとした助け合い精神だからこそ成り立っている部分があり、そこから脱却した場合のあらたな倫理観の構築する術が思いつかないというか、それこそ、そのいち早く近代化したはずの中国が初期近代である近世で止まっている所をみると、これをこのまま輸入したところで、どうにもならないだろうと思ってしまう所でしょうかね。
もちろん、現在の日本の抱えている状況、格差固定社会へと向かっている感なども含めて、変えざるを得ないと思う事は山積みなんですが、積極的に目指すべき指標ではないよなぁと、そう思う事こそが思考の硬直化と言われてしまいそうなんですが、面白い分析だとは思いますし、これが今の歴史学会の常識的な流れと言われれば専門外の私はそうですかとしか言えないのですが、ポストモダンはむしろ先祖がえりするという分析以外のものが出てこないと、大変だよなぁと思って終わりになってしまいますね。
はじめに 新たな歴史観としての「中国化」
第 1章 終わっていた歴史 宋朝と古代日本
第 2章 勝てない「中国化」勢力 元・明・清朝と中世日本
第 3章 ぼくたちの好きな江戸 戦国時代が作る徳川日本(17世紀)
第 4章 こんな近世は嫌だ 自壊する徳川日本(18~19世紀)
第 5章 開国はしたけれど 「中国化」する明治日本
第 6章 わが江戸は縁なりき 「再江戸時代化」する昭和日本
第 7章 近世の衝突 中国に負けた帝国日本
第 8章 続きすぎた江戸時代 栄光と挫折の戦後日本
第 9章 「長い江戸時代」の終焉
第10章 今度こそ「中国化」する日本 未来のシナリオ
おわりに ポスト「3・11」の歴史観へ
残虐な中国共産党による軍事進攻によって、日本が制圧されてしまい、中国日本省にされてしまうという悪夢が訪れるとか、そういうたぐいの物を、どうしても想像してしまいますが、とりあえずそういう事を扱った物ではないという事で。
日本と中国、少なくとも民度であるとか、言論の自由であるとか民主化とか、概ねの状況から考えて、中国の方が日本よりも遅れていると普通の日本人は考えると思います。
しかし、遅れているはずの中国の方が、日本を抜いて経済2位になったという事実を無視するわけにはいかないと、それは、粉飾があるとか、払うべき著作権や特許料を無視したからとか、単純に人口が多いからとか、いくらでも説明が付きそうな所があるとはいえ、少なくとも完全な捏造扱いするにはむりがあるだけの規模の国家になった事は認めないわけにはいかない、そこを踏まえて、遅れているはずの国に追い抜かれたのかを分析する上で、実は進んでいるはずの日本の方が遅れている国であったという視点を強調するのが、本書になります。
どれくらい、中国が進んでいて、日本が遅れているのか、それは日本が西洋勢力からの影響で近代化したというのではなく、実はこのいわゆる近代という時代そのものが、出発点は中国の宋の時代の事であると。
初期近代、近世を完成させたのが宋であり、日本は逆にこの時代より前に遣唐使廃止以降、中国の社会制度を遠ざけたせいで、近代化が遅れたと。
そして、近世の特徴が今現在の世界全般に見られる傾向であり、日本はそれに対応できていないからこそ、どうにも常に何か不満を抱えながら我慢しないといけない社会になていると。
近世の最大の特徴は、科挙制度を取り入れた事で、身分制を破壊したこと、それによりいわゆる新自由主義経済的な、自己責任社会、失敗した時はセーフティーネットを地域社会に求めるのではなく、個人的な血縁に求め、流動性の高い社会にしたという事。
その逆が日本であり、身分制はしっかりと江戸時代まで残り、地域社会が強いムラ社会型になり、江戸時代の身分制度のいびつな形、武士階級は階級は高いけれども貧しく、商人は金はあるけれども身分は低いという、必ず何かしら満足いかないものが残るという形になっていると。
これを、基本ベースに中国が近世に移った後の日本の歴史をたどりながら、それぞれの問題点をチェックしていくという流れになっています。
しかし、読んでいて思うのは、歴史は新しくなるほど進歩していくという考え方の否定がより強く説明されているなぁという事と、日本の現在の問題点というか、いいとこどりをしようとして失敗しているという歪みは分かるものの、じゃあ近世化しても、それでよくなり得ないとしか思えないなぁという事でしょうか。
好き嫌いは別として、現在の日本人の倫理観はムラ社会をベースとした助け合い精神だからこそ成り立っている部分があり、そこから脱却した場合のあらたな倫理観の構築する術が思いつかないというか、それこそ、そのいち早く近代化したはずの中国が初期近代である近世で止まっている所をみると、これをこのまま輸入したところで、どうにもならないだろうと思ってしまう所でしょうかね。
もちろん、現在の日本の抱えている状況、格差固定社会へと向かっている感なども含めて、変えざるを得ないと思う事は山積みなんですが、積極的に目指すべき指標ではないよなぁと、そう思う事こそが思考の硬直化と言われてしまいそうなんですが、面白い分析だとは思いますし、これが今の歴史学会の常識的な流れと言われれば専門外の私はそうですかとしか言えないのですが、ポストモダンはむしろ先祖がえりするという分析以外のものが出てこないと、大変だよなぁと思って終わりになってしまいますね。
はじめに 新たな歴史観としての「中国化」
第 1章 終わっていた歴史 宋朝と古代日本
第 2章 勝てない「中国化」勢力 元・明・清朝と中世日本
第 3章 ぼくたちの好きな江戸 戦国時代が作る徳川日本(17世紀)
第 4章 こんな近世は嫌だ 自壊する徳川日本(18~19世紀)
第 5章 開国はしたけれど 「中国化」する明治日本
第 6章 わが江戸は縁なりき 「再江戸時代化」する昭和日本
第 7章 近世の衝突 中国に負けた帝国日本
第 8章 続きすぎた江戸時代 栄光と挫折の戦後日本
第 9章 「長い江戸時代」の終焉
第10章 今度こそ「中国化」する日本 未来のシナリオ
おわりに ポスト「3・11」の歴史観へ
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