今日の読書 経済学は人々を幸福にできるか/宇沢弘文
経済学という学問は、基本的には社会生活の中で金が絡む事を分析してみましょうという学問分野と考えるものだと思います。
金が絡む分析という事なので、本気で感情から完全に切り離した数学的な分野から、逆に数学的な分析を使っているかのようにして完全に感情論としか思えない結論付けに持って行くものまで幅広く、広義の意味での経済学となると同じジャンルに扱うのが無理ありすぎるだろうという感じになり、それぞれがイメージするものも決して統一感のあるものでもないので、いろいろととっちらかってしまったりするのではないかと思ったりします。
そのせいで、マスメディアに登場する経済通と言われる人も幅が広すぎて、真っ当な事を言う人から極論しか言わない人、本気で詐欺師的な視点しか持ち得ないものとあったりで、どことなく胡散臭い分野になっている気がしなくもないわけですが、それはおいておいて。
宇沢弘文という経済学者について私が意識するようになったのは、ノーベル経済学賞受賞者であるスティグリッツの師匠筋の1人であるという事からであり、経済学という分野がどうしても今現在アメリカ中心になってしまっているのもあって、余計に日本人学者をしっかりと認識していない私の見識の狭さでもあるのですが、実はかなり高名な学者さんではあるのですよね。
扱っている中心テーマは社会的共通資本という概念でして、市場原理主義と呼ばれる分野の人が真っ先に切り捨てるものですね。
社会的インフラ、人間が人間らしく生活するためにしっかりと備えておかなければいけないもの、格差や貧困といったものは放っておけば拡大するだけのものであり、そういったものが拡大する事によって人間の尊厳が失われないようにするために、しっかりと社会全体で補助しておきましょうというものなのですね。
市場原理主義という社会性や公共性よりもまずは利益至上主義では何それ美味いの?状態になるので、市場原理主義の傲慢で利己的なものを絶対悪として、あるべきリベラリズムというもの、理想論としてのリベラルについて語っている物になります。
どのような社会政策においても私は極論というものが危険であると考えています。
近代経済学のアプローチとしては、いわゆる市場重視の古典派の流れと、市場だけでは全て解決できるものではないというケインズ経済学の流れと2つあるわけですが、それぞれ得意分野不得意分野が存在していて、どちらかが絶対的に正しい、どちらかが絶対的に間違っているという物では無く、どちらも自分の言い分が絶対的に正しいというアプローチになると絶対に失敗するという考え方が正しいと思っています。
古典派の流れでいくと、いわゆる市場原理主義がそれに当たるわけで、市場に任せておけば全てが上手くいくというのは、資本主義が登場してから早い段階で失敗をしているわけであり、未だに全面的に信頼している人がいると、また世界的大不況をおこして第二次世界大戦レベルの戦争でもおこしたいのかと疑いたくもなりますし、逆にケインズ政策を絶対だとやりすぎると、今度は資本主義を通り越して社会主義共産主義まで突き抜けてしまう恐れがあったり、仮にそこまで突き抜けなくてもコスト意識の軽視によって、国家の赤字体質であるとか、必要な公共投資ではなく無駄な公共投資のための公共投資という本末転倒状態に陥るという恐れがあるという事で、それぞれの主張の得意不得意分野を認識しておかなければいけないなぁという、どうにも割りきれない結論に終わるわけですが、まぁ逆に分かりやすい極論を掲げている人を疑えという事になるんでしょうが。
極論を疑えという意味で、基本アプローチは市場原理主義者についてボロカスに扱っているのが本書の特徴の1つになると思います。
資本主義の利益追求という所に特化する事によって、社会が人間の集合であるという視点の欠如を放っておき、それによって社会がめちゃくちゃになるというのが、分かりやすい結論であると思います。
そういった類の物を、いろいろな例をあげて扱っているものですね。
多少気になるのは理想としてのリベラルというものを掲げている関係もあるのですが、若干権力に対する懐疑的なところへの力点が強すぎるかなという事でしょうか。
これは、どうにも現在のリベラルを表看板にしている人達が、本来あるべきリベラルというものと外れてきていて、自分の掲げる正義に反する物に対する非寛容な態度が目立っていて、どうにもリベラル勢力と言われる人々がリベラルの悪しき政治利用をしているとしか思えなくなっているのを私が強く感じているからでしょうか、リベラルという名の単なる利己的な圧力団体になり下がっているというか、どういった表看板であろうとも単純に声のでかい利己的な人が目立つだけなのかもしれないですが。
第1部 市場原理主義の末路
第1章 社会的共通資本は市場原理主義には守れない
第2章 パックス・アメリカーナの危うさ
第2部 右傾化する日本への危惧
第3章 昭和天皇とヨハネ・パウロ二世の言葉
第4章 戦争の傷を抱えた経済学者
第3部 60年代アメリカ 激動する社会と研究者仲間たち
第5章 若き友人達を巻き込んだヴェトナム戦争
第6章 レオン・フェスティンガーを偲ぶ
第7章 9・11テロが早期させる『ローマ帝国衰亡史』
第8章 ハーヴェイ・ロードの僭見と日本の官僚
第4部 学びの場の再生
第9章 魚に泳ぎ方を教える
第10章 経済学の新しい地平を拓くのは学生だ
第11章 果たせなかった「夢の教科書」作り
第12章 大学で「学び」を心ゆくまで楽しむ
第13章 ビールを飲みにゆく心のゆとり
第14章 ケンブリッジのカレッジで
第15章 福祉は制度化できるか
第5部 地球環境問題への根拠
第16章 社会的共通資本としての環境
第17章 経済学はグローバル・チェンジを考察できるか
第18章 空海が学んだスリランカの溜池灌漑
第19章 人間的な都市を求めて ルーヴァン大学の挑戦
第20章 緑地という都市環境をどう創るか
金が絡む分析という事なので、本気で感情から完全に切り離した数学的な分野から、逆に数学的な分析を使っているかのようにして完全に感情論としか思えない結論付けに持って行くものまで幅広く、広義の意味での経済学となると同じジャンルに扱うのが無理ありすぎるだろうという感じになり、それぞれがイメージするものも決して統一感のあるものでもないので、いろいろととっちらかってしまったりするのではないかと思ったりします。
そのせいで、マスメディアに登場する経済通と言われる人も幅が広すぎて、真っ当な事を言う人から極論しか言わない人、本気で詐欺師的な視点しか持ち得ないものとあったりで、どことなく胡散臭い分野になっている気がしなくもないわけですが、それはおいておいて。
宇沢弘文という経済学者について私が意識するようになったのは、ノーベル経済学賞受賞者であるスティグリッツの師匠筋の1人であるという事からであり、経済学という分野がどうしても今現在アメリカ中心になってしまっているのもあって、余計に日本人学者をしっかりと認識していない私の見識の狭さでもあるのですが、実はかなり高名な学者さんではあるのですよね。
扱っている中心テーマは社会的共通資本という概念でして、市場原理主義と呼ばれる分野の人が真っ先に切り捨てるものですね。
社会的インフラ、人間が人間らしく生活するためにしっかりと備えておかなければいけないもの、格差や貧困といったものは放っておけば拡大するだけのものであり、そういったものが拡大する事によって人間の尊厳が失われないようにするために、しっかりと社会全体で補助しておきましょうというものなのですね。
市場原理主義という社会性や公共性よりもまずは利益至上主義では何それ美味いの?状態になるので、市場原理主義の傲慢で利己的なものを絶対悪として、あるべきリベラリズムというもの、理想論としてのリベラルについて語っている物になります。
どのような社会政策においても私は極論というものが危険であると考えています。
近代経済学のアプローチとしては、いわゆる市場重視の古典派の流れと、市場だけでは全て解決できるものではないというケインズ経済学の流れと2つあるわけですが、それぞれ得意分野不得意分野が存在していて、どちらかが絶対的に正しい、どちらかが絶対的に間違っているという物では無く、どちらも自分の言い分が絶対的に正しいというアプローチになると絶対に失敗するという考え方が正しいと思っています。
古典派の流れでいくと、いわゆる市場原理主義がそれに当たるわけで、市場に任せておけば全てが上手くいくというのは、資本主義が登場してから早い段階で失敗をしているわけであり、未だに全面的に信頼している人がいると、また世界的大不況をおこして第二次世界大戦レベルの戦争でもおこしたいのかと疑いたくもなりますし、逆にケインズ政策を絶対だとやりすぎると、今度は資本主義を通り越して社会主義共産主義まで突き抜けてしまう恐れがあったり、仮にそこまで突き抜けなくてもコスト意識の軽視によって、国家の赤字体質であるとか、必要な公共投資ではなく無駄な公共投資のための公共投資という本末転倒状態に陥るという恐れがあるという事で、それぞれの主張の得意不得意分野を認識しておかなければいけないなぁという、どうにも割りきれない結論に終わるわけですが、まぁ逆に分かりやすい極論を掲げている人を疑えという事になるんでしょうが。
極論を疑えという意味で、基本アプローチは市場原理主義者についてボロカスに扱っているのが本書の特徴の1つになると思います。
資本主義の利益追求という所に特化する事によって、社会が人間の集合であるという視点の欠如を放っておき、それによって社会がめちゃくちゃになるというのが、分かりやすい結論であると思います。
そういった類の物を、いろいろな例をあげて扱っているものですね。
多少気になるのは理想としてのリベラルというものを掲げている関係もあるのですが、若干権力に対する懐疑的なところへの力点が強すぎるかなという事でしょうか。
これは、どうにも現在のリベラルを表看板にしている人達が、本来あるべきリベラルというものと外れてきていて、自分の掲げる正義に反する物に対する非寛容な態度が目立っていて、どうにもリベラル勢力と言われる人々がリベラルの悪しき政治利用をしているとしか思えなくなっているのを私が強く感じているからでしょうか、リベラルという名の単なる利己的な圧力団体になり下がっているというか、どういった表看板であろうとも単純に声のでかい利己的な人が目立つだけなのかもしれないですが。
第1部 市場原理主義の末路
第1章 社会的共通資本は市場原理主義には守れない
第2章 パックス・アメリカーナの危うさ
第2部 右傾化する日本への危惧
第3章 昭和天皇とヨハネ・パウロ二世の言葉
第4章 戦争の傷を抱えた経済学者
第3部 60年代アメリカ 激動する社会と研究者仲間たち
第5章 若き友人達を巻き込んだヴェトナム戦争
第6章 レオン・フェスティンガーを偲ぶ
第7章 9・11テロが早期させる『ローマ帝国衰亡史』
第8章 ハーヴェイ・ロードの僭見と日本の官僚
第4部 学びの場の再生
第9章 魚に泳ぎ方を教える
第10章 経済学の新しい地平を拓くのは学生だ
第11章 果たせなかった「夢の教科書」作り
第12章 大学で「学び」を心ゆくまで楽しむ
第13章 ビールを飲みにゆく心のゆとり
第14章 ケンブリッジのカレッジで
第15章 福祉は制度化できるか
第5部 地球環境問題への根拠
第16章 社会的共通資本としての環境
第17章 経済学はグローバル・チェンジを考察できるか
第18章 空海が学んだスリランカの溜池灌漑
第19章 人間的な都市を求めて ルーヴァン大学の挑戦
第20章 緑地という都市環境をどう創るか
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