今日の読書 王の挽歌/遠藤周作
九州の名門大名である大友宗麟を主役にした歴史小説になります。
大友宗麟はキリシタン大名として後世に名を残していますが、いろいろと悪名も残していて、人間的には分裂症気味というか、いろいろと破綻している逸話もあったりするわけですが、そうした大友宗麟の人間不信、内紛にまみれたお家騒動であるとか、大内や毛利の脅威にさらされる戦乱の世ならではの緊迫状況を中心に話は進みます。
本来、いわゆる武将的な才能よりも、文化人としての素質に恵まれた宗麟は、それゆえに戦乱状況で悩みまくり、人間不信に陥っているからこそ決断力も弱く、弱さに付け込まれそうになるから、弱者に対して暴走したり、また暴走したらしたで罪の意識に悩まされと、戦国時代を舞台にした歴史小説としては類をみないくらい勇壮さの無い話になっています。
そうした悩みから逃れるために、当時日本にやってきたフランシスコ・ザビエルに感化され、キリスト教に傾倒していくのですが、寺社関係者を身内に持つために、キリスト教に改宗するという事は、そのままお家騒動を招くという事で、そこでも悩みまくるという何とも冴えない形に。
そういった宗麟をキリスト教の神父視点で描写されるシーンがあったりするのは、作者がキリシタンだからこそというか、キリシタンだからこそ大友宗麟を取りあげたという事なんでしょうね。
当時の日本の宗教観とキリスト教との違い、なかなか日本にキリスト教が浸透しない事に対する布教側の悩み。
それだけだと、ちょっとキリスト教側だけに肩入れ感が出てしまうという事で、当時の宣教師たちが、布教しながら植民地にするというダブルスタンダードも甚だしい状況が日本ではばれて禁教令につながって行くというのが、話の終着点になったりするので、大友宗麟の悩みとキリスト教宣教師の悩み、理想と現実の葛藤をまとめ上げた作品ということになりますね。
私は個人的に一神教というものが受け入れられないので、キリスト教視点で当時の日本の宗教の批判的な部分について、ちょっと反対したくなったりはするのですが
、それはそれとして戦国時代を扱った小説として、今まで読んできたものとは違う角度から書かれていて楽しめました。
大友宗麟はキリシタン大名として後世に名を残していますが、いろいろと悪名も残していて、人間的には分裂症気味というか、いろいろと破綻している逸話もあったりするわけですが、そうした大友宗麟の人間不信、内紛にまみれたお家騒動であるとか、大内や毛利の脅威にさらされる戦乱の世ならではの緊迫状況を中心に話は進みます。
本来、いわゆる武将的な才能よりも、文化人としての素質に恵まれた宗麟は、それゆえに戦乱状況で悩みまくり、人間不信に陥っているからこそ決断力も弱く、弱さに付け込まれそうになるから、弱者に対して暴走したり、また暴走したらしたで罪の意識に悩まされと、戦国時代を舞台にした歴史小説としては類をみないくらい勇壮さの無い話になっています。
そうした悩みから逃れるために、当時日本にやってきたフランシスコ・ザビエルに感化され、キリスト教に傾倒していくのですが、寺社関係者を身内に持つために、キリスト教に改宗するという事は、そのままお家騒動を招くという事で、そこでも悩みまくるという何とも冴えない形に。
そういった宗麟をキリスト教の神父視点で描写されるシーンがあったりするのは、作者がキリシタンだからこそというか、キリシタンだからこそ大友宗麟を取りあげたという事なんでしょうね。
当時の日本の宗教観とキリスト教との違い、なかなか日本にキリスト教が浸透しない事に対する布教側の悩み。
それだけだと、ちょっとキリスト教側だけに肩入れ感が出てしまうという事で、当時の宣教師たちが、布教しながら植民地にするというダブルスタンダードも甚だしい状況が日本ではばれて禁教令につながって行くというのが、話の終着点になったりするので、大友宗麟の悩みとキリスト教宣教師の悩み、理想と現実の葛藤をまとめ上げた作品ということになりますね。
私は個人的に一神教というものが受け入れられないので、キリスト教視点で当時の日本の宗教の批判的な部分について、ちょっと反対したくなったりはするのですが
、それはそれとして戦国時代を扱った小説として、今まで読んできたものとは違う角度から書かれていて楽しめました。
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