今日の読書 親鸞 完結篇/五木寛之
親鸞を主人公とした歴史小説である『親鸞』『親鸞激動篇』に続く3作目でタイトルにある通りに完結篇になります。
完結篇は、専修念仏によって今日を追放された後を描いた激動篇の最後で再び今日に戻る決意をしてからの事、親鸞の人生も晩年に入ってから今日で過ごす日々についてになります。
親鸞の中で専修念仏とはどういうものか、自力ではなく他力とはどういうことか、というものはある程度出来上がっているものの、その教えを受けた人達には、なかなか全てが上手く伝わっているわけではなく、悪人正機説の曲解などのように、伝わり方がこれじゃないという感じになっているのに、じゃあどうすれば上手く伝わるのかを悩むという事。
また、教えがそうではないの筆頭として、親鸞の長男である善鸞を軸におき、親鸞が親としての立場としては上手くやれなかったという悩みも前面に出してきて、人間としての親鸞の苦悩というのも前面に出していたり、善鸞を始めとして親鸞の求めるものではない派閥争いのようなものが出来あがったり、宗教の純粋なる信仰とは別の側面もかなり表に出しています。
また、当時専修念仏は危険思想扱いされるもの、念仏を唱えればそれでよしという、既存仏教に喧嘩を売る形のものであったり、阿弥陀如来至上主義がともすれば仏教だけではなく土着信仰をも否定していると解釈もされやすいという事で、目の敵にされて命も狙われる親鸞という図式はそれまでもありましたが、構図としては宗教家を主人公とした歴史小説というよりも、権謀術数渦巻く世界感でもあり、武将を主人公とした歴史小説っぽい感じもあります。
狙いとしては浄土真宗開祖としての、聖人としての親鸞ではなく、より人間臭い親鸞を描こうとしているので、自然そういう感じになるのでしょうね。
完結篇は、専修念仏によって今日を追放された後を描いた激動篇の最後で再び今日に戻る決意をしてからの事、親鸞の人生も晩年に入ってから今日で過ごす日々についてになります。
親鸞の中で専修念仏とはどういうものか、自力ではなく他力とはどういうことか、というものはある程度出来上がっているものの、その教えを受けた人達には、なかなか全てが上手く伝わっているわけではなく、悪人正機説の曲解などのように、伝わり方がこれじゃないという感じになっているのに、じゃあどうすれば上手く伝わるのかを悩むという事。
また、教えがそうではないの筆頭として、親鸞の長男である善鸞を軸におき、親鸞が親としての立場としては上手くやれなかったという悩みも前面に出してきて、人間としての親鸞の苦悩というのも前面に出していたり、善鸞を始めとして親鸞の求めるものではない派閥争いのようなものが出来あがったり、宗教の純粋なる信仰とは別の側面もかなり表に出しています。
また、当時専修念仏は危険思想扱いされるもの、念仏を唱えればそれでよしという、既存仏教に喧嘩を売る形のものであったり、阿弥陀如来至上主義がともすれば仏教だけではなく土着信仰をも否定していると解釈もされやすいという事で、目の敵にされて命も狙われる親鸞という図式はそれまでもありましたが、構図としては宗教家を主人公とした歴史小説というよりも、権謀術数渦巻く世界感でもあり、武将を主人公とした歴史小説っぽい感じもあります。
狙いとしては浄土真宗開祖としての、聖人としての親鸞ではなく、より人間臭い親鸞を描こうとしているので、自然そういう感じになるのでしょうね。
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