今日の読書 慶應本科と折口信夫 いとま申して2/北村薫
北村薫の父親である宮本演彦の日記を元に、その父親を主人公とした評伝的小説の第2弾になります。
昭和4年春から始まる、父親の慶應大学の学生としての出来事になるわけですが、大学生個人としての物語というだけではなく、昭和初期を舞台とした歴史小説として読めたりもします。
学生として折口信夫の教えを請う事になるまでに、歌舞伎を観た感想であるとか、不景気な世の中になって、それまで金に困った事が無かったのに、金に困るようになったり、学生を終えたとして就職先があまりにもないという気が滅入るような事が待ち構えていたり、また当時の学生がどんな感じだったのか、野球の早慶戦の後学生が銀座で飲んで暴れるなんていうのは、ある意味では形こそ変われども、今と大差が無いなとかいろいろとありますね。
時代が変わるとイメージも変わるという事では、今イメージとしての慶應大学はどちらかというと上品というか、気取った金持ち集団という偏見を持ち得る感じであると思いますが(実際は知りませんが)当時の慶應大学は上品という扱いは取り立ててなかった、むしろやんちゃな感じだったという事になっているというものがあり楽しめます。
もっとも、これは慶應に通っていた本人の日記の記述からですから、外からのイメージと実際に中にいるのでは違うというだけかもしれないですが。
あと、飛行船であるツェッペリン号が空を飛んでいるのを目撃するというのがあるのですが、飛行船の名前である事よりも先に、ハードロックバンドのレッド・ツェッペリンの方を先に知っていた関係で、その部分を読んでいる時には勝手に頭の中でレッド・ツェッペリンの移民の歌が頭に鳴り響き続けたりしたという、物凄くどうでもいい感想もあったりします。
明治以降のいわゆる近代文学を読んでいても、一応その時代について分かる事もあるのですが、いかんせん当時の常識は当時の常識として説明なしで進む事が多く、今一つ状況がつかみきれない事があるのですが、現代に書かれたものですし、意識的に今との違いであるとか、今に照らし合わせるとという表現が多く、分かりやすいなぁと思えましたね。
歴史小説を読んでいて、話の流れをぶった切って自説を長々と解説されたりすると、それはそれで、流れが悪くなって読みにくいのですが、北村薫はそういう書き方をしないので、ストレスを感じる事もないですからね。
昭和4年春から始まる、父親の慶應大学の学生としての出来事になるわけですが、大学生個人としての物語というだけではなく、昭和初期を舞台とした歴史小説として読めたりもします。
学生として折口信夫の教えを請う事になるまでに、歌舞伎を観た感想であるとか、不景気な世の中になって、それまで金に困った事が無かったのに、金に困るようになったり、学生を終えたとして就職先があまりにもないという気が滅入るような事が待ち構えていたり、また当時の学生がどんな感じだったのか、野球の早慶戦の後学生が銀座で飲んで暴れるなんていうのは、ある意味では形こそ変われども、今と大差が無いなとかいろいろとありますね。
時代が変わるとイメージも変わるという事では、今イメージとしての慶應大学はどちらかというと上品というか、気取った金持ち集団という偏見を持ち得る感じであると思いますが(実際は知りませんが)当時の慶應大学は上品という扱いは取り立ててなかった、むしろやんちゃな感じだったという事になっているというものがあり楽しめます。
もっとも、これは慶應に通っていた本人の日記の記述からですから、外からのイメージと実際に中にいるのでは違うというだけかもしれないですが。
あと、飛行船であるツェッペリン号が空を飛んでいるのを目撃するというのがあるのですが、飛行船の名前である事よりも先に、ハードロックバンドのレッド・ツェッペリンの方を先に知っていた関係で、その部分を読んでいる時には勝手に頭の中でレッド・ツェッペリンの移民の歌が頭に鳴り響き続けたりしたという、物凄くどうでもいい感想もあったりします。
明治以降のいわゆる近代文学を読んでいても、一応その時代について分かる事もあるのですが、いかんせん当時の常識は当時の常識として説明なしで進む事が多く、今一つ状況がつかみきれない事があるのですが、現代に書かれたものですし、意識的に今との違いであるとか、今に照らし合わせるとという表現が多く、分かりやすいなぁと思えましたね。
歴史小説を読んでいて、話の流れをぶった切って自説を長々と解説されたりすると、それはそれで、流れが悪くなって読みにくいのですが、北村薫はそういう書き方をしないので、ストレスを感じる事もないですからね。
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