今日の読書 織田信長のマネー革命 経済戦争としての戦国時代/武田知弘
歴史というのは、光の当て方や力点の置き方などによって評価の仕方がいくらでも変わってくるもの、特に賛否両論が出やすい人や物事はその評価する人の趣味嗜好や善悪の価値固定なんていうものが分かったりして面白いと思えるものだと、専門外な立場で楽しんでいたりします。
まぁ、どちらかというと歴史上の登場人物の功績や性格というものを楽しむのは歴史小説での扱いがメインだったりはしますが、逆に小説を楽しむために、ノンフィクションものを読んで知識も増えるとより楽しめるというループ作業を勝手にしているだけなんですが。
そんな歴史上の人物や物事についての評価をする場合、自由度という意味で近代以前の方が現代の歴史の政治利用から外れていて純粋に楽しめると思っていたりしますし、史料の多さという意味で戦国時代は本当にネタに困らないなぁと思わずにはいられないですね。。
近代以降になると、史料が豊富にあっても、歴史の政治利用とも言える善悪二元化固定主義がヒステリックに絡んできて、純粋な知的好奇心を邪魔する圧力が絡んできてしまったりしまして辟易とする事がありますし。
とはいえ、この筆者は近代において善悪二元化固定のうちの最たる存在の1人であるヒトラーの経済政策に焦点を当てた『ヒトラーの経済政策』という著書において、全否定しかしてはいけない存在になってしまったヒトラーの人格否定から離れて、純粋に経済政策のみに焦点を当てて、不景気からの脱出、世界史上で一番最初に効果を表したケインズ政策であるとか、現在の日本でも参考にできそうな少子化対策なんていうのも扱っていて、楽しめたりしたんですよね、まぁヒトラーというと問答無用で絶対悪というか独裁者の象徴として、すぐレッテルに利用されてしまったりするんですが、まぁ世の中ヒトラーの安売りばかりですよね(苦笑)
本書で扱う織田信長も賛否両論ある人物で、革命的な天才という扱いと、残虐な独裁者扱いされやすいのと両方ともあるもので、これこそ単純な善悪二元論で当てはめると何も意味がなくなる存在ですよね。
信長は後世に残る偉業を多々切り開らいた人物ですが、それが出来た事は経済に明るかったからこそというのに力点を置いて解説しています。
信長の経済政策については、座の廃止と楽市楽座の設置、堺商人を自陣に巻き込み、南蛮貿易も積極的に取り込みと、誰しも一定の知識はあり、経済に明るいというイメージは概ね持っていると思います。
延暦寺や本願寺をボコボコに焼き討ちした裏に当時の寺社利権の解体という意図があったというのは、賛否両論というか、利権解体という所をすっ飛ばして、焼き討ちだけ取りあげられる傾向があるというので、有名であったりしますが、そういう分かりやすい改革は元から知識としてあったので、それほど驚きではないですが、新たな視点として面白かったのは、長篠の戦いに注目し、織田家と武田家の運命を変えた事がそれこそ経済力出会ったという事ですかね。
長篠の戦いは織田家の鉄砲隊と武田家の騎馬隊という新旧交代の象徴のように扱われるが、織田家は鉄砲を調達できる条件を先に作り出したのに対し、武田家はそれが根本的に作れない、作る事ができる条件を物理的に持っていなかった、ここまでは知識の少ない私であってもあっさりと理解出来る事なのですが、その前段階、武田信玄存命中の上洛そのものが、織田家は包囲網をひかれているように見えて、実は武田家の方が経済的包囲網をひかれていて、無茶をせざるを得ない条件だったという説は面白かったですね。
経済封鎖状態の武田家がその経済封鎖を突破するために上洛という考え方は、あまり目にした事がないですし、無茶したのは信玄が病気を抱えていて残り時間がなかったからというのが自然な感じですし、1つの説として面白い視点だなと。
そして、経済封鎖状態になっているものとして、貨幣流通の仕組みを織田家がしっかりしていて、特にそれまでなかった金貨を流通手段として使えるようにした織田家の先見性として扱っている所は、今まで目にした事のないものとして楽しく読む事が出来ました。
歴史上の出来事は時代によって価値観や条件が違いますし、それをそのまま現代に持ってくる事は無理だと思いますが、信長のやった事、特に利権構造の破壊というのは、現代でも十分に通用するというか、日本経済の停滞の主な要因として利権構造そのものだと思っているので、上手く持って来れる政治家とかいないものかなぁと思わずにはいられないですね、それこそ現代の比叡山焼き討ちという意味で、利権構造を持っているような宗教団体なんかがあるのならば、真っ先に焼き討ちレベルの事をやってみるとか!
序 章 信長はいかにして軍資金を調達していたのか?
第1章 日本の経済システムは信長が作った
第2章 長篠の戦いは“経済戦争”だった
第3章 延暦寺の焼き討ちは“大財閥”の解体だった
第4章 安土城“テクノポリス”構想
第5章 信長の“理想国家”の行方
まぁ、どちらかというと歴史上の登場人物の功績や性格というものを楽しむのは歴史小説での扱いがメインだったりはしますが、逆に小説を楽しむために、ノンフィクションものを読んで知識も増えるとより楽しめるというループ作業を勝手にしているだけなんですが。
そんな歴史上の人物や物事についての評価をする場合、自由度という意味で近代以前の方が現代の歴史の政治利用から外れていて純粋に楽しめると思っていたりしますし、史料の多さという意味で戦国時代は本当にネタに困らないなぁと思わずにはいられないですね。。
近代以降になると、史料が豊富にあっても、歴史の政治利用とも言える善悪二元化固定主義がヒステリックに絡んできて、純粋な知的好奇心を邪魔する圧力が絡んできてしまったりしまして辟易とする事がありますし。
とはいえ、この筆者は近代において善悪二元化固定のうちの最たる存在の1人であるヒトラーの経済政策に焦点を当てた『ヒトラーの経済政策』という著書において、全否定しかしてはいけない存在になってしまったヒトラーの人格否定から離れて、純粋に経済政策のみに焦点を当てて、不景気からの脱出、世界史上で一番最初に効果を表したケインズ政策であるとか、現在の日本でも参考にできそうな少子化対策なんていうのも扱っていて、楽しめたりしたんですよね、まぁヒトラーというと問答無用で絶対悪というか独裁者の象徴として、すぐレッテルに利用されてしまったりするんですが、まぁ世の中ヒトラーの安売りばかりですよね(苦笑)
本書で扱う織田信長も賛否両論ある人物で、革命的な天才という扱いと、残虐な独裁者扱いされやすいのと両方ともあるもので、これこそ単純な善悪二元論で当てはめると何も意味がなくなる存在ですよね。
信長は後世に残る偉業を多々切り開らいた人物ですが、それが出来た事は経済に明るかったからこそというのに力点を置いて解説しています。
信長の経済政策については、座の廃止と楽市楽座の設置、堺商人を自陣に巻き込み、南蛮貿易も積極的に取り込みと、誰しも一定の知識はあり、経済に明るいというイメージは概ね持っていると思います。
延暦寺や本願寺をボコボコに焼き討ちした裏に当時の寺社利権の解体という意図があったというのは、賛否両論というか、利権解体という所をすっ飛ばして、焼き討ちだけ取りあげられる傾向があるというので、有名であったりしますが、そういう分かりやすい改革は元から知識としてあったので、それほど驚きではないですが、新たな視点として面白かったのは、長篠の戦いに注目し、織田家と武田家の運命を変えた事がそれこそ経済力出会ったという事ですかね。
長篠の戦いは織田家の鉄砲隊と武田家の騎馬隊という新旧交代の象徴のように扱われるが、織田家は鉄砲を調達できる条件を先に作り出したのに対し、武田家はそれが根本的に作れない、作る事ができる条件を物理的に持っていなかった、ここまでは知識の少ない私であってもあっさりと理解出来る事なのですが、その前段階、武田信玄存命中の上洛そのものが、織田家は包囲網をひかれているように見えて、実は武田家の方が経済的包囲網をひかれていて、無茶をせざるを得ない条件だったという説は面白かったですね。
経済封鎖状態の武田家がその経済封鎖を突破するために上洛という考え方は、あまり目にした事がないですし、無茶したのは信玄が病気を抱えていて残り時間がなかったからというのが自然な感じですし、1つの説として面白い視点だなと。
そして、経済封鎖状態になっているものとして、貨幣流通の仕組みを織田家がしっかりしていて、特にそれまでなかった金貨を流通手段として使えるようにした織田家の先見性として扱っている所は、今まで目にした事のないものとして楽しく読む事が出来ました。
歴史上の出来事は時代によって価値観や条件が違いますし、それをそのまま現代に持ってくる事は無理だと思いますが、信長のやった事、特に利権構造の破壊というのは、現代でも十分に通用するというか、日本経済の停滞の主な要因として利権構造そのものだと思っているので、上手く持って来れる政治家とかいないものかなぁと思わずにはいられないですね、それこそ現代の比叡山焼き討ちという意味で、利権構造を持っているような宗教団体なんかがあるのならば、真っ先に焼き討ちレベルの事をやってみるとか!
序 章 信長はいかにして軍資金を調達していたのか?
第1章 日本の経済システムは信長が作った
第2章 長篠の戦いは“経済戦争”だった
第3章 延暦寺の焼き討ちは“大財閥”の解体だった
第4章 安土城“テクノポリス”構想
第5章 信長の“理想国家”の行方