今日の読書 違和感の正体/先崎彰容
盲目的に自分の正義を振りかざし、単純に善悪二元論に持ち込んでいたり、理想と現実に乖離があった場合その理想が現実的に無理があったんじゃないのかという疑問を持たずに現実の方が間違っていると一足飛びで結果をだして断言する人を見てしまうと、なんだかなぁと思わずにはいられません。
そのなんだかなぁと思ってしまう正義のもって行き方の代表にいわゆるマスメディア、特に左系であるとかリベラルという立ち位置で、かつては良識派であるとか進歩派であるとか、知性をリードする存在であるかのような扱いをされた人々が目立っているような感覚に陥り、保守と改革という単純な二分化をするとして、その改革側の頑ななまでの保守的な思想や態度の捻れ具合は酷いなという感想を持つばかりになっています。
保守と改革という立ち位置という意味での硬直化はむしろ政治家の方が目立ってしまっている気もしますけれどもね、保守や右翼というものが絶対悪であるかのようなレッテル貼りばかりが目立ちますから。
そこら辺、私のそういった感覚が絶対的に正しいと言うつもりはないですし、ある程度感覚的なものであって、何かしらの理論付けが出来ているというものでもなく、単純な二項対立構造、特にその分け方が自分が善という立ち位置と規定して、それに反するものは悪という一番たちの悪い極論の殴り合い状態であるとか、善悪二項対立構造にしてしまったがために、自分の行動は善だから何をしても許されるというような手段を使っていて、例えば戦争反対を叫んでいる人が、平気で暴力手段に訴えたり、手段と目的が完全に入れ替わっているだろうとか思えない事が目に付くなと。
もちろん、目に付くのが酷いだけで、極論をふるって目立とうとしている人と一切関わりを持たない人の方が大多数ですが、そういう目立っている人に対しても全否定か全肯定のどちらかしか許されないかのような空気感があるのではないかと、ここら辺もとりたてて根拠はありませんが。
そういった、ものを社会思想史で考えてみようというのが本書になります。
私は社会思想史というものに対して専門的な知識はありませんので、何となく分かっている気になっているものが、実は社会思想ではこう扱われてきたというのを知る事は新鮮ではありますが、概ね何だかなぁと思っている事そのものは私が感じている事はすでに扱われてきた事に過ぎないんだなと、私の感覚的な事を理論的に補助してくれているなと思えるものでした。
全部が全部、私と感覚的に同じものであるかというと違いますし、扱っている事全てにおいて私が考えている事ではないですけれどもね。
基本的に、今は世間的には『政治の季節』として、何か政治的なネタがあるとみんなが食いついて、ルサンチマンを爆発させている、またはその爆発させている人を揶揄する、単純に分類すると前者をデモ左翼、後者をネット右翼として考えると分かりやすい。
そして、物事の善悪であるとか、寄ってすがれる存在が喪失した状態を「ものさし不在」、何か問題が起きた時に、脊髄反射的に文句を言ったり、短期的に解決する事を声高に迫ったりする「処方箋を焦る社会」として、特に「ものさし不在」故に生じている問題、ものさしが不在だからこそ、俺が正義だ!となってしまい、それぞれがそれぞれの正義を振りかざし、何か建設的な議論をするのではなく、対立構造を作りだしては相手をぶちのめす事に終始したり、スキがあれば足を引っぱって苦しむ顔を見たくてウズウズそのくせ決まった顔で道徳を気取っているという感じになってしまったり。
そんな事を、ある程度自覚的にやっているのならば、それこそ差別反対を叫びながら為政者の人格否定を連呼するような事を、自分達は一線を踏み越えた自己矛盾をはらみながらやらざるを得ないんだという自覚があるのならばまだしも、無自覚に当たり前の正義としてやられている事に違和感を感じるというのが、いろいろな角度でまとめているというのが本書なのかなと思いますね。
そういった分析をするのが社会思想であり、その処方箋たり得るものが文学であるという考え方は果たして正しいのかどうか、私には判断しかねますが、違和感そのものの分析と言う事に関しては非常に腑に落ちるものだらけですね。
どうにも、現在の何でも善悪二項対立と言う事に違和感を感じる人があれば読んでみると分かりやすく説明されていると思いますし、なにがしかの社会的な恨みを市民運動をして憂さを晴らしているような人は、自分のやっている事が本当に正しいのかどうか、むしろ自分のやっている事が社会的に憎悪をまき散らしているだけなのではないかと冷静に判断するために読んでみるのも良いんじゃないですかね。
社会的な繋がりを持ちたくて市民運動とかやって、何か悪を糾弾して正義を振りかざして気分良くなっているような人は、そんな事やめてもっと建設的な事をやろうよとしか私には思えないんですよね。
むしろ、そのパワーをお前らが悪いんだ!と叫ぶよりも、お前らが良いんだ!と叫ぶような活動をすると良いと思うんですよね。
それこそ、サッカーのサポーターなどのようにスポーツの応援をするでもよし、ライブ会場に行って一緒になって歌うも良しって。
デモ論 「知識人」はなぜ舐められるのか
差別論 何が「自由」を衰弱させるのか
教育論 「権威とサービス」は両立するのか
時代閉塞論 「新しいこと」などあるものか
近代化論 「反知性主義」を批評できるか
平和論 「勢力均衡の崩壊」にどう向き合うか
沖縄問題論 「弱者」への同情は正義なのか
震災論 「自己崩壊の危機」をどう生き抜くか
そのなんだかなぁと思ってしまう正義のもって行き方の代表にいわゆるマスメディア、特に左系であるとかリベラルという立ち位置で、かつては良識派であるとか進歩派であるとか、知性をリードする存在であるかのような扱いをされた人々が目立っているような感覚に陥り、保守と改革という単純な二分化をするとして、その改革側の頑ななまでの保守的な思想や態度の捻れ具合は酷いなという感想を持つばかりになっています。
保守と改革という立ち位置という意味での硬直化はむしろ政治家の方が目立ってしまっている気もしますけれどもね、保守や右翼というものが絶対悪であるかのようなレッテル貼りばかりが目立ちますから。
そこら辺、私のそういった感覚が絶対的に正しいと言うつもりはないですし、ある程度感覚的なものであって、何かしらの理論付けが出来ているというものでもなく、単純な二項対立構造、特にその分け方が自分が善という立ち位置と規定して、それに反するものは悪という一番たちの悪い極論の殴り合い状態であるとか、善悪二項対立構造にしてしまったがために、自分の行動は善だから何をしても許されるというような手段を使っていて、例えば戦争反対を叫んでいる人が、平気で暴力手段に訴えたり、手段と目的が完全に入れ替わっているだろうとか思えない事が目に付くなと。
もちろん、目に付くのが酷いだけで、極論をふるって目立とうとしている人と一切関わりを持たない人の方が大多数ですが、そういう目立っている人に対しても全否定か全肯定のどちらかしか許されないかのような空気感があるのではないかと、ここら辺もとりたてて根拠はありませんが。
そういった、ものを社会思想史で考えてみようというのが本書になります。
私は社会思想史というものに対して専門的な知識はありませんので、何となく分かっている気になっているものが、実は社会思想ではこう扱われてきたというのを知る事は新鮮ではありますが、概ね何だかなぁと思っている事そのものは私が感じている事はすでに扱われてきた事に過ぎないんだなと、私の感覚的な事を理論的に補助してくれているなと思えるものでした。
全部が全部、私と感覚的に同じものであるかというと違いますし、扱っている事全てにおいて私が考えている事ではないですけれどもね。
基本的に、今は世間的には『政治の季節』として、何か政治的なネタがあるとみんなが食いついて、ルサンチマンを爆発させている、またはその爆発させている人を揶揄する、単純に分類すると前者をデモ左翼、後者をネット右翼として考えると分かりやすい。
そして、物事の善悪であるとか、寄ってすがれる存在が喪失した状態を「ものさし不在」、何か問題が起きた時に、脊髄反射的に文句を言ったり、短期的に解決する事を声高に迫ったりする「処方箋を焦る社会」として、特に「ものさし不在」故に生じている問題、ものさしが不在だからこそ、俺が正義だ!となってしまい、それぞれがそれぞれの正義を振りかざし、何か建設的な議論をするのではなく、対立構造を作りだしては相手をぶちのめす事に終始したり、スキがあれば足を引っぱって苦しむ顔を見たくてウズウズそのくせ決まった顔で道徳を気取っているという感じになってしまったり。
そんな事を、ある程度自覚的にやっているのならば、それこそ差別反対を叫びながら為政者の人格否定を連呼するような事を、自分達は一線を踏み越えた自己矛盾をはらみながらやらざるを得ないんだという自覚があるのならばまだしも、無自覚に当たり前の正義としてやられている事に違和感を感じるというのが、いろいろな角度でまとめているというのが本書なのかなと思いますね。
そういった分析をするのが社会思想であり、その処方箋たり得るものが文学であるという考え方は果たして正しいのかどうか、私には判断しかねますが、違和感そのものの分析と言う事に関しては非常に腑に落ちるものだらけですね。
どうにも、現在の何でも善悪二項対立と言う事に違和感を感じる人があれば読んでみると分かりやすく説明されていると思いますし、なにがしかの社会的な恨みを市民運動をして憂さを晴らしているような人は、自分のやっている事が本当に正しいのかどうか、むしろ自分のやっている事が社会的に憎悪をまき散らしているだけなのではないかと冷静に判断するために読んでみるのも良いんじゃないですかね。
社会的な繋がりを持ちたくて市民運動とかやって、何か悪を糾弾して正義を振りかざして気分良くなっているような人は、そんな事やめてもっと建設的な事をやろうよとしか私には思えないんですよね。
むしろ、そのパワーをお前らが悪いんだ!と叫ぶよりも、お前らが良いんだ!と叫ぶような活動をすると良いと思うんですよね。
それこそ、サッカーのサポーターなどのようにスポーツの応援をするでもよし、ライブ会場に行って一緒になって歌うも良しって。
デモ論 「知識人」はなぜ舐められるのか
差別論 何が「自由」を衰弱させるのか
教育論 「権威とサービス」は両立するのか
時代閉塞論 「新しいこと」などあるものか
近代化論 「反知性主義」を批評できるか
平和論 「勢力均衡の崩壊」にどう向き合うか
沖縄問題論 「弱者」への同情は正義なのか
震災論 「自己崩壊の危機」をどう生き抜くか