今日の仮面ライダージオウ総括
毎回最終回が終わると作品全体の総括と言う名の漠然とした感想をまとめていますが、仮面ライダージオウも一応やっておこうと思います。
仮面ライダージオウは平成ライダー最終作という記念作品という事で、仮面ライダーディケイドに続き、過去作品との絡みが最初から織り込まれていて、ディケイドが過去作品とは言いながらもリイマジンとして作り替えられた、基本的には別の役者が演じるものであったのに対し、ジオウでは過去作品に出演していた役者も登場という、実際のストーリー以上に誰が出てくれるのかという事を楽しみにする作品となり話題性も高かったのではないかと思います。
どうしてもディケイドと比べてしまうところなのですが、ディケイドははじめから、仮面ライダーが存在する別時空、パラレルワールドが1つに集約してしまい世界が滅びてしまうという事を防ぐのが狙いという事が提示されて始まったのに対し、ジオウは未来にはオーマジオウという最低最悪の魔王が君臨していて、その魔王となるソウゴを倒すために未来からゲイツとツクヨミがやって来る、そしてタイムジャッカーがアナザーライダーを作りだし歴史改変を狙うのを防ぐという、三つ巴っぽいところから始まり、アナザーライダーを倒すためにはオリジナルライダーの力を手に入れるというタイムトラベルものという始まり方をしました。
ディケイドがパラレルワールドという横の関係を移動して物語を進めるのに対し、ジオウは時間という縦の関係という違いを初期設定では提示していたわけですが、時間というと電王という先行作もありますし、さらに過去の仮面ライダーの力を使うという事によって、仮面ライダーの力を奪うことになり、その仮面ライダーがいなかった歴史が定着するという話が進めば進むほど、歴史が変っていき、それはそれで大問題になるのではないかというのが最初からだされていたわけですね。
基本的にジオウは、タイムジャッカーが過去にアナザーライダーを作って、その時代に向かってライドウォッチを手に入れて、アナザーライダーを倒すという基本的な流れの話として、過去の仮面ライダーに変身していた本人や、ゆかりのある人からウォッチを渡されるというのが続き、その流れで全部やりきるのかと思いきや、現時点よりも未来のライダー編が入り、未来編が片付いたら、今度は過去作品の登場人物が絡んでくる話に戻り、初期とは違い過去に行ってライドウォッチを手に入れてという手間は取らなくてすむような状況になっていて、未来のライダー達が変身したという流れを踏まえてなのか、過去作のゲストも変身するというようなものになり、最終盤はラスボス扱いになったスウォルツとの戦いという流れになっていました。
その間、初期から普通に変身したり話にかなり突っ込んでいた仮面ライダーディケイドの士という存在もいましたし、本来はソウゴを倒すためにやって来たゲイツとツクヨミがソウゴに対して倒すか信用するかで何度もぐらついてみたり、初期から胡散臭い祝うための存在であるウォズと白ウォズが出たりと、時間を扱うという事で分岐した未来という縦軸は縦軸としてあるけれども一本道では無く混在するというのを中盤でやって、話としてはどう収集するつもりなのか分からないものになっていました。
終盤にはスウォルツとツクヨミが兄妹で別の時間軸からやって来たという事が語られ、最終盤に士が仮面ライダーが存在する世界はそれぞれが別の時間軸という、それって結局ディケイドでやるべき事をジオウでやり直そうとしているよねという、縦横入り乱れた繋がりになっていて、じゃあタイムマジーンってどんな機能があったのかと深く考えれば考えるほど、全体の設定をしっかりと把握している人ってどれだけいるのか気になって仕方が無いものへとなりました。
最終回の結論も破壊無くして創造無しというディケイドの時に掲げたものを、今回はしっかりと創造という形のリセット、ビルドと龍騎の最終回の方法論の流用という形でまとめて来て、それまでの伏線であるとか、全体の設定とかしっかりまとめようとすると、あまりにも無理筋だから、それをおさめるにはこれしか無いという落としどころなんだなと思わざるを得ない結末となりました。
ここら辺の事を全部ひっくるめて、結局は『細かいことは良いんだよ!』『考えるな感じろ!』の精神というか、瞬間瞬間を必死に生きていたという映画でのセリフが全て、その時々に楽しめればそれでいいという完全なる開き直り精神というのは、お祭り作品では最大限に使うものなんだなと、それぐらい開き直ってやりきるだけのハートの強さを持っていないとやっていられないという事なんだろうなと。
実際に、作品全体を見ると話としてまとめる気が無い、力を入れていることとぞんざいに扱っている部分に落差がありすぎる、1年間の尺の使い方がおかしいとかあるのですが、じゃあ面白くないかというと、キャラクター同士のやりとりに面白い部分は沢山ありましたし、ゲストも誰が来るのか楽しみも多かったですし、作品によっては本編で積み残した部分をジオウで補完した(剣のエピソードあたりは特に)ものもありますし、初期の作品ほど後日談として感慨深いものもあったりして、それはそれで楽しめました。
最終回のまとめ方も、いろいろと急展開にもほどがあるというのもありますが、とにかく過去最大の放り投げ、続きは映画でをやってしまったディケイドという前例があったせいで、テレビ本編として一応の落としどころを作って最終回らしい最終回を示しただけでも、一定の評価を与えてしまうというか、さらに言うとディケイドのテレビ本編の落としどころにすら感じさせてしまったことも含めて、この程度にまとめただけでも良いじゃないかと思わされました。
ジオウという作品は結局、初戦お祭り作品、自ら楽しいと思うところだけを積極的に感じていこうぜというものだったんでしょう。
作り手がそういった態度で臨むことが果たして正しいかどうかは別にして。
毎回総括と言いながらまとまっている気もしませんねぇ(汗)



仮面ライダージオウは平成ライダー最終作という記念作品という事で、仮面ライダーディケイドに続き、過去作品との絡みが最初から織り込まれていて、ディケイドが過去作品とは言いながらもリイマジンとして作り替えられた、基本的には別の役者が演じるものであったのに対し、ジオウでは過去作品に出演していた役者も登場という、実際のストーリー以上に誰が出てくれるのかという事を楽しみにする作品となり話題性も高かったのではないかと思います。
どうしてもディケイドと比べてしまうところなのですが、ディケイドははじめから、仮面ライダーが存在する別時空、パラレルワールドが1つに集約してしまい世界が滅びてしまうという事を防ぐのが狙いという事が提示されて始まったのに対し、ジオウは未来にはオーマジオウという最低最悪の魔王が君臨していて、その魔王となるソウゴを倒すために未来からゲイツとツクヨミがやって来る、そしてタイムジャッカーがアナザーライダーを作りだし歴史改変を狙うのを防ぐという、三つ巴っぽいところから始まり、アナザーライダーを倒すためにはオリジナルライダーの力を手に入れるというタイムトラベルものという始まり方をしました。
ディケイドがパラレルワールドという横の関係を移動して物語を進めるのに対し、ジオウは時間という縦の関係という違いを初期設定では提示していたわけですが、時間というと電王という先行作もありますし、さらに過去の仮面ライダーの力を使うという事によって、仮面ライダーの力を奪うことになり、その仮面ライダーがいなかった歴史が定着するという話が進めば進むほど、歴史が変っていき、それはそれで大問題になるのではないかというのが最初からだされていたわけですね。
基本的にジオウは、タイムジャッカーが過去にアナザーライダーを作って、その時代に向かってライドウォッチを手に入れて、アナザーライダーを倒すという基本的な流れの話として、過去の仮面ライダーに変身していた本人や、ゆかりのある人からウォッチを渡されるというのが続き、その流れで全部やりきるのかと思いきや、現時点よりも未来のライダー編が入り、未来編が片付いたら、今度は過去作品の登場人物が絡んでくる話に戻り、初期とは違い過去に行ってライドウォッチを手に入れてという手間は取らなくてすむような状況になっていて、未来のライダー達が変身したという流れを踏まえてなのか、過去作のゲストも変身するというようなものになり、最終盤はラスボス扱いになったスウォルツとの戦いという流れになっていました。
その間、初期から普通に変身したり話にかなり突っ込んでいた仮面ライダーディケイドの士という存在もいましたし、本来はソウゴを倒すためにやって来たゲイツとツクヨミがソウゴに対して倒すか信用するかで何度もぐらついてみたり、初期から胡散臭い祝うための存在であるウォズと白ウォズが出たりと、時間を扱うという事で分岐した未来という縦軸は縦軸としてあるけれども一本道では無く混在するというのを中盤でやって、話としてはどう収集するつもりなのか分からないものになっていました。
終盤にはスウォルツとツクヨミが兄妹で別の時間軸からやって来たという事が語られ、最終盤に士が仮面ライダーが存在する世界はそれぞれが別の時間軸という、それって結局ディケイドでやるべき事をジオウでやり直そうとしているよねという、縦横入り乱れた繋がりになっていて、じゃあタイムマジーンってどんな機能があったのかと深く考えれば考えるほど、全体の設定をしっかりと把握している人ってどれだけいるのか気になって仕方が無いものへとなりました。
最終回の結論も破壊無くして創造無しというディケイドの時に掲げたものを、今回はしっかりと創造という形のリセット、ビルドと龍騎の最終回の方法論の流用という形でまとめて来て、それまでの伏線であるとか、全体の設定とかしっかりまとめようとすると、あまりにも無理筋だから、それをおさめるにはこれしか無いという落としどころなんだなと思わざるを得ない結末となりました。
ここら辺の事を全部ひっくるめて、結局は『細かいことは良いんだよ!』『考えるな感じろ!』の精神というか、瞬間瞬間を必死に生きていたという映画でのセリフが全て、その時々に楽しめればそれでいいという完全なる開き直り精神というのは、お祭り作品では最大限に使うものなんだなと、それぐらい開き直ってやりきるだけのハートの強さを持っていないとやっていられないという事なんだろうなと。
実際に、作品全体を見ると話としてまとめる気が無い、力を入れていることとぞんざいに扱っている部分に落差がありすぎる、1年間の尺の使い方がおかしいとかあるのですが、じゃあ面白くないかというと、キャラクター同士のやりとりに面白い部分は沢山ありましたし、ゲストも誰が来るのか楽しみも多かったですし、作品によっては本編で積み残した部分をジオウで補完した(剣のエピソードあたりは特に)ものもありますし、初期の作品ほど後日談として感慨深いものもあったりして、それはそれで楽しめました。
最終回のまとめ方も、いろいろと急展開にもほどがあるというのもありますが、とにかく過去最大の放り投げ、続きは映画でをやってしまったディケイドという前例があったせいで、テレビ本編として一応の落としどころを作って最終回らしい最終回を示しただけでも、一定の評価を与えてしまうというか、さらに言うとディケイドのテレビ本編の落としどころにすら感じさせてしまったことも含めて、この程度にまとめただけでも良いじゃないかと思わされました。
ジオウという作品は結局、初戦お祭り作品、自ら楽しいと思うところだけを積極的に感じていこうぜというものだったんでしょう。
作り手がそういった態度で臨むことが果たして正しいかどうかは別にして。
毎回総括と言いながらまとまっている気もしませんねぇ(汗)



