今日の仮面ライダーゼロワン総括
仮面ライダーゼロワン、昨日無事に最終回を迎えたという事で、一応恒例としている総括いう名のだらだらとした雑感を書いていこうと思います。
令和開始初の仮面ライダーという事で注目度も高く、何気に一番注目度が高かったのが、平成仮面ライダーの代名詞的存在であるスーツアクターの高岩さんが主役の座を降りて後任に任せることになったという事かもしれないですが、それも含めて新たなものを送り出すという意欲作であったことは間違い無いとは思います。
人と人工知能搭載人型ロボットであるヒューマギアが実用化された世界を舞台という、人とロボットが共存できるのかどうか、そこに待ち受ける障害であるとか、妨害から仮面ライダーはどのような立ち位置で世界を救う事になるのかというSF装置としては古典的なテーマが軸としてあり、売れないお笑い芸人が突如社長業を引き継ぐ事になるという、相続ものという古典的なテーマだけれども組み合わせとしては珍し目という所からの出発点となりました。
出発点としての表看板はジャンルとしてある程度定番なものであり、組み合わせとしても例えば医療とゲームというエグゼイドのような奇抜なインパクトがあるわけではなく、お約束を軸とした王道作品が期待出来るかと予測していましたし、王道を踏まえておけば多少奇抜な味付けをしても安定して楽しめるものとなり得るなと考えていました。
個人的な結論を先に言うと、予測とは違ったなですね。
仮面ライダーの総括を書いてきて、わりと残念だったなという評価をする場合、詰め込みすぎて消化不良というのと、設定の説明、作り込み、整合性の不足というのを出す場合が多いのですが、今回もそれに当てはまってしまったかなと。
ここら辺のものを全て小さな事は良いんだよとばかりに力技で解決可能であり、それはそれで面白いという突き抜け具合がある作品というのも存在はするのですが、そこまで突き抜けてもいなかったと。
ヒューマギアという存在の立ち位置が今ひとつ定まらなかったというのは、どうしても気になるところでした。
序盤は或人がイズと共に社長業というよりも営業の社員として売り込んだり、既存の客の要望に応えたりしながら、滅亡迅雷.netがシンギュラリティに達したヒューマギアをマギア化するという話では、或人は事あるごとにヒューマギアは夢のマシンという事を連呼していたのですが、何がどう夢のマシンなのか具体的な話は一切無し。
或人は其雄というヒューマギアに育てられ、その父親を笑わすためにお笑い芸人を目指したというところまでは描写されているものの、生物上の親に関して言及されず。
ヒューマギアに育てられたことによって救われたから自分もヒューマギアを笑顔にして恩返しをしたいんだというような比較的強調しやすいようなこともせず、父親との別れのシーンを思い出しあとは察してくれというぼんやりとした描写ばかりの繰り返し。
序盤ヒューマギアを売り込みたい或人が何度となく繰り返した、夢のマシンなんだという事が、どう夢のマシンなんだという具体的な描写を描かないまま、いつのまにかこの夢が、ヒューマギアと一緒に笑い合う世界になるのが夢と進化というか変化をしていたり、具体的な描写のないぼんやりとした形で夢を多用してしまったこと、ヒューマギアそのものの立ち位置と同様に夢という言葉の立ち位置もぼんやりしてしまったかなとは思わずにはいられないですね。
主人公としての或人とヒューマギアの関係性や立ち位置に関しては秘書のイズとの関係性は上手く描かれていたとは思い、ラーニングというものに関しても、特に或人のくだらないギャグ描写をラーニングしていき、関係性の向上、人工知能の成長という事に関しては全部イズとの関係性にぶち込んでしまったのかもしれないですね。
序盤に関しては1話の出来が凄く期待出来るものだったので粗が多少あったとしても、大人の事情で大量に出し続けなければならないコレクターズアイテムを消化しながら作品世界も説明しなければいけない詰め込まざるを得ない状況だから、それが落ち着けば面白くなっていくだろうと、コレクターズアイテム大量商法が定番化して以降の前例に照らし合わせながら考えていて、実際に第1次滅亡迅雷.net編までは期待の方が大きいものでした。
お仕事5番勝負、これがこの作品の足を引っ張った分岐点となってしまったと。
ヒューマギアを中心軸に考えているのならばヒューマギア全否定をする必要は無く、飛電インテリジェンスのライバル企業を出すのであれば、ZAIAの立ち位置もヒューマギア製造にした方がベタでもすっきりしていたのではないかと今でも思っています。
ヒューマギアを否定するにしても、用意されたZAIAスペックという商品の魅力の無さ、そもそもヒューマギアが人手不足を補う、人間の能力を超えやすい肉体労働を伴っているという利便性があるのに、ZAIAスペックは単純に人工知能が人間をサポートするにとどまっている、後にレイドライザー一般発売という形に発展させますが、ヒューマギアが危険であるから人間もレイドライザーで対抗出来るという事にするのならばヒューマギア全否定で破棄させるという流れにする意味が分からないですし、ヒューマギアに対する人々の視点がその都度バラバラ過ぎて作品内の立ち位置が不明になりすぎたと。
お仕事5番勝負以降、復活の滅亡迅雷.netからのアークとの戦いとなっていきますが、間にお仕事5番勝負を入れた意味が全く生かされることなく、悪意のラーニングによってアークが作り出されたとなると、ヒューマギアそのものが問題なのでは無く人工知能そのものの欠点、ヒューマギアが暴走するから危険というのを飛び越えて、人工知能が暴走するから都市機能が危険とすり替わってしまい、軸が完全に別のものになってしまったと。
ここら辺滅亡迅雷.netの4人の立ち位置の違いも今ひとつ有効に使えず、アークも人工知能の衛星というものから、悪霊のような存在に変化してしまったり初期設定としてもっと固められなかったのか、初期に伏線(のように思わせぶりにしたそれっぽいもの)を生かせるような展開には出来なかったのかなどなど思わずにはいられなかったり。
世界設定であるとか積み重ね、伏線の張り方と回収の仕方については課題だらけではありましたが、それを横に置けば楽しめる要素も多々あり、或人が主人公らしさを発揮できるようになったのは終盤になってから(それも色々と横に置かないといけなかったですが)なのに対して、力技でなんでも解決する不破の主人公ぶりは記憶を改竄されているという伏線から何から考えると雑な部分はありますが、考え方の変化からなにから王道路線で安心して見ていられましたし、キャスティングなども上手くはまっている感じでしたので、作品全体をダメだったと言い切るよりも本当に勿体なかったと。
唯阿も最初ヒューマギアを道具としてしか考えていないところから始まり、最終的には考え方を変えるというのも積み重ねがなかったり、脳にチップが埋め込まれていて天津に逆らえなかったという設定ももう少し違ったものになれば変化の過程が楽しめるキャラとしてもっと上手く出来たと思いますし、飛電インテリジェンスも副社長達も早い段階で或人を疎んじているけれども副社長や専務をやれるだけの能力はあるというのを出していれば印象も変わったでしょうし、天津もお仕事5番勝負を引っ張らず、さらにお仕事5番勝負が決着する時点で改心出来る形にしていれば、諸悪の根源のくせに何しれっと仲間のようになっているんだよというのもなくなったでしょうしねぇ…
今年は社会情勢の関係で予定が大いに狂わされたことは分かりますが、予定が狂う前から設定と設定に沿った一貫性整合性のある行動をしっかりと作り込んでいればと。
私は一定以上の整合性を作品に求める傾向があると自覚はしていますが、同時に整合性にこだわりすぎて小さくまとまる事を恐れる作り手の気持ちも理解はします。
それを踏まえた上で、じゃあ小さくまとまらないように、それでいて変な矛盾点をつくらないような設定を作り込んで、その枠内で作品をしっかりとまとめて欲しいと思わずにはいられないのですよね。
仮面ライダーゼロワンという作品、準備した材料そのものの質は高いと思うだけに勿体なかった。







令和開始初の仮面ライダーという事で注目度も高く、何気に一番注目度が高かったのが、平成仮面ライダーの代名詞的存在であるスーツアクターの高岩さんが主役の座を降りて後任に任せることになったという事かもしれないですが、それも含めて新たなものを送り出すという意欲作であったことは間違い無いとは思います。
人と人工知能搭載人型ロボットであるヒューマギアが実用化された世界を舞台という、人とロボットが共存できるのかどうか、そこに待ち受ける障害であるとか、妨害から仮面ライダーはどのような立ち位置で世界を救う事になるのかというSF装置としては古典的なテーマが軸としてあり、売れないお笑い芸人が突如社長業を引き継ぐ事になるという、相続ものという古典的なテーマだけれども組み合わせとしては珍し目という所からの出発点となりました。
出発点としての表看板はジャンルとしてある程度定番なものであり、組み合わせとしても例えば医療とゲームというエグゼイドのような奇抜なインパクトがあるわけではなく、お約束を軸とした王道作品が期待出来るかと予測していましたし、王道を踏まえておけば多少奇抜な味付けをしても安定して楽しめるものとなり得るなと考えていました。
個人的な結論を先に言うと、予測とは違ったなですね。
仮面ライダーの総括を書いてきて、わりと残念だったなという評価をする場合、詰め込みすぎて消化不良というのと、設定の説明、作り込み、整合性の不足というのを出す場合が多いのですが、今回もそれに当てはまってしまったかなと。
ここら辺のものを全て小さな事は良いんだよとばかりに力技で解決可能であり、それはそれで面白いという突き抜け具合がある作品というのも存在はするのですが、そこまで突き抜けてもいなかったと。
ヒューマギアという存在の立ち位置が今ひとつ定まらなかったというのは、どうしても気になるところでした。
序盤は或人がイズと共に社長業というよりも営業の社員として売り込んだり、既存の客の要望に応えたりしながら、滅亡迅雷.netがシンギュラリティに達したヒューマギアをマギア化するという話では、或人は事あるごとにヒューマギアは夢のマシンという事を連呼していたのですが、何がどう夢のマシンなのか具体的な話は一切無し。
或人は其雄というヒューマギアに育てられ、その父親を笑わすためにお笑い芸人を目指したというところまでは描写されているものの、生物上の親に関して言及されず。
ヒューマギアに育てられたことによって救われたから自分もヒューマギアを笑顔にして恩返しをしたいんだというような比較的強調しやすいようなこともせず、父親との別れのシーンを思い出しあとは察してくれというぼんやりとした描写ばかりの繰り返し。
序盤ヒューマギアを売り込みたい或人が何度となく繰り返した、夢のマシンなんだという事が、どう夢のマシンなんだという具体的な描写を描かないまま、いつのまにかこの夢が、ヒューマギアと一緒に笑い合う世界になるのが夢と進化というか変化をしていたり、具体的な描写のないぼんやりとした形で夢を多用してしまったこと、ヒューマギアそのものの立ち位置と同様に夢という言葉の立ち位置もぼんやりしてしまったかなとは思わずにはいられないですね。
主人公としての或人とヒューマギアの関係性や立ち位置に関しては秘書のイズとの関係性は上手く描かれていたとは思い、ラーニングというものに関しても、特に或人のくだらないギャグ描写をラーニングしていき、関係性の向上、人工知能の成長という事に関しては全部イズとの関係性にぶち込んでしまったのかもしれないですね。
序盤に関しては1話の出来が凄く期待出来るものだったので粗が多少あったとしても、大人の事情で大量に出し続けなければならないコレクターズアイテムを消化しながら作品世界も説明しなければいけない詰め込まざるを得ない状況だから、それが落ち着けば面白くなっていくだろうと、コレクターズアイテム大量商法が定番化して以降の前例に照らし合わせながら考えていて、実際に第1次滅亡迅雷.net編までは期待の方が大きいものでした。
お仕事5番勝負、これがこの作品の足を引っ張った分岐点となってしまったと。
ヒューマギアを中心軸に考えているのならばヒューマギア全否定をする必要は無く、飛電インテリジェンスのライバル企業を出すのであれば、ZAIAの立ち位置もヒューマギア製造にした方がベタでもすっきりしていたのではないかと今でも思っています。
ヒューマギアを否定するにしても、用意されたZAIAスペックという商品の魅力の無さ、そもそもヒューマギアが人手不足を補う、人間の能力を超えやすい肉体労働を伴っているという利便性があるのに、ZAIAスペックは単純に人工知能が人間をサポートするにとどまっている、後にレイドライザー一般発売という形に発展させますが、ヒューマギアが危険であるから人間もレイドライザーで対抗出来るという事にするのならばヒューマギア全否定で破棄させるという流れにする意味が分からないですし、ヒューマギアに対する人々の視点がその都度バラバラ過ぎて作品内の立ち位置が不明になりすぎたと。
お仕事5番勝負以降、復活の滅亡迅雷.netからのアークとの戦いとなっていきますが、間にお仕事5番勝負を入れた意味が全く生かされることなく、悪意のラーニングによってアークが作り出されたとなると、ヒューマギアそのものが問題なのでは無く人工知能そのものの欠点、ヒューマギアが暴走するから危険というのを飛び越えて、人工知能が暴走するから都市機能が危険とすり替わってしまい、軸が完全に別のものになってしまったと。
ここら辺滅亡迅雷.netの4人の立ち位置の違いも今ひとつ有効に使えず、アークも人工知能の衛星というものから、悪霊のような存在に変化してしまったり初期設定としてもっと固められなかったのか、初期に伏線(のように思わせぶりにしたそれっぽいもの)を生かせるような展開には出来なかったのかなどなど思わずにはいられなかったり。
世界設定であるとか積み重ね、伏線の張り方と回収の仕方については課題だらけではありましたが、それを横に置けば楽しめる要素も多々あり、或人が主人公らしさを発揮できるようになったのは終盤になってから(それも色々と横に置かないといけなかったですが)なのに対して、力技でなんでも解決する不破の主人公ぶりは記憶を改竄されているという伏線から何から考えると雑な部分はありますが、考え方の変化からなにから王道路線で安心して見ていられましたし、キャスティングなども上手くはまっている感じでしたので、作品全体をダメだったと言い切るよりも本当に勿体なかったと。
唯阿も最初ヒューマギアを道具としてしか考えていないところから始まり、最終的には考え方を変えるというのも積み重ねがなかったり、脳にチップが埋め込まれていて天津に逆らえなかったという設定ももう少し違ったものになれば変化の過程が楽しめるキャラとしてもっと上手く出来たと思いますし、飛電インテリジェンスも副社長達も早い段階で或人を疎んじているけれども副社長や専務をやれるだけの能力はあるというのを出していれば印象も変わったでしょうし、天津もお仕事5番勝負を引っ張らず、さらにお仕事5番勝負が決着する時点で改心出来る形にしていれば、諸悪の根源のくせに何しれっと仲間のようになっているんだよというのもなくなったでしょうしねぇ…
今年は社会情勢の関係で予定が大いに狂わされたことは分かりますが、予定が狂う前から設定と設定に沿った一貫性整合性のある行動をしっかりと作り込んでいればと。
私は一定以上の整合性を作品に求める傾向があると自覚はしていますが、同時に整合性にこだわりすぎて小さくまとまる事を恐れる作り手の気持ちも理解はします。
それを踏まえた上で、じゃあ小さくまとまらないように、それでいて変な矛盾点をつくらないような設定を作り込んで、その枠内で作品をしっかりとまとめて欲しいと思わずにはいられないのですよね。
仮面ライダーゼロワンという作品、準備した材料そのものの質は高いと思うだけに勿体なかった。