今日の読書 「リベラル」がうさんくさいのには理由がある/橘玲
本書のタイトルではないですが、いわゆるリベラルの看板を掲げ発言をしたり、社会評論をしたり、政策を提案したり評価したりしている人々がどうにもうさんくさいと感じたことがある人は私だけでは無いはずです、ある意味それが浸透しすぎてリベラルという概念そのものがうさんくさい、もしくは現実社会と乖離した空想理想主義でしかないと思われ始めているというか、そういうレッテルにすらなっている場合もあるのではと思える節もあるのではと。
私は社会思想であるとか、政治思想に関する学問的バックボーンは持ち得ていません。
ですので、それが実際に当たっているかどうかは別として私が思う本来のリベラルという立ち位置ってこういうものだろうなとぼんやりと定義づけしているのは、本当の意味での中道なのではないかなと。
リベラルというのは元々、既成概念からの逸脱して自由になるということを出発点としてるはず。
身分や人種、宗教や性別などなど伝統的に価値固定されたものに対して、その伝統は本当に根拠のあるものなのか、価値固定主義は誤りなのではないか、そのしがらみから自由になって固定化された価値観以外の生き方を認められてしかるべきでは無いのかというものなのではないかと。
そういった出発点を持っているからこそ、価値固定主義、単純な二項対立構造によって生まれながら善悪が決まっているようなものへの反発が強いはず、ある意味単純な二項対立構造こそを逸脱し自由な思考を得る物がリベラルであると勝手に解釈しています。
しかし、どうにも現在リベラルがうさんくさいものとして扱われている裏側には、リベラルの看板を掲げて主張する人が、単純な二項対立構造であるとか、単純な善悪価値固定主義に陥っているのではないかと思える事例が山ほど出てきているのではないか。
例えば人種差別、人種差別は決して許してはいけないものですが、差別による被害者と加害者の立場を考えるときにこれを安易に被害者を善、加害者を悪という単純な二項対立構造に組み込むと新たな人種差別を生み出す事になる。
被害者は被害者であってそれだけで善という立場を得るわけではないですし、加害者は加害者であったというだけで、存在を全否定されたり子々孫々悪のレッテルを背負い続ける必要は無い。
しかし、単純な二項対立構造は分かりやすく力強いので安易にこの構造に全てを組み込もうとしてしまいがちですし、いわゆるリベラルは差別者サイドに立つので一方的に肩を持ちがちであり、例えば単純に性格破綻者がいたとして皆から嫌われたとする。
その場合伝統的に差別される側出身者が差別してきた側出身者に嫌われた場合、性格破綻者だから嫌われたという事実よりも、出自が原因だから嫌われたから差別だと話をすり替えることが可能になり、またそれに対する公正な検証よりも、人種差別として扱った方がより優秀なリベラルであるかのような錯覚に陥りがちで、事実関係よりも持論の方が大事という新たな固定概念が出来上がり、リベラルという看板を使った善悪価値固定主義が出来上がり、意味が分からなくなるという残念な結果を招いてしまう。
そこらへんからも、本来のリベラルというのは、単純な善悪価値固定主義から自由であるためには常に自己批判をし続けなければいけない、自分の善であるという判断は他者に受け入れられない事もあり得るし、また他者が自分と違う善の価値観を持っていても、それを真っ向から全否定すると言う事は自由を押しつけ、相手の自由を奪うと言う事になるという事は自覚し続けなければならないという、ある意味不自由なものと自覚しなければならないもの。
しかし、どうにも現在のリベラルの看板を掲げている人は、他者の思考を全否定する自由だけは行使するけれども、他者が自分の思考を否定する自由は認めようとしないという保守的な傾向が強くなっていて、なんだかなぁと。
前置きが長くなりすぎましたが、本書の感想の方に戻りましょう。
本書は基本敵には週刊プレイボーイに連載している社会問題の時事批評に、書き下ろしを加えてタイトルに合せた形でまとめたものであり、主に日本のリベラルが世界基準とはかけ離れているという指摘するものになっています。
私が本来のリベラルというのは中道を意味するものなんじゃ無いのかというのに対し、日本の場合リベラルという看板は中道を意味するのではなく左翼や極左を意味する物になっていて、正確な検証よりも都合の良いところだけ抜き出したり、自分が悪だと定義した相手であればどれだけ誹謗中傷したとしても構わないとする差別主義が根強く残っているというのがある意味全てですね。
労働問題であれば、正規雇用と非正規雇用、サービス残業という奴隷契約などリベラルを掲げるマスメディアが批判すべきものが、実は自分達も同じ差別をして放置している、それをよしとしているダブルスタンダードであって、情報発信側がこれじゃあ説得力もへったくれも無いよねと。
憲法解釈にしてもリベラルこそ憲法9条改正を叫んで、自衛隊というあやふやな立場にしておくのではなく、軍としてしっかりと存在させて、軍の意義として何よりも国民を守るものであると明示させるべきなんていうのも出てきますが、まぁここら辺も日本のいわゆるリベラルの看板を使っている人からは出てこないものであったりしますしね。
結局リベラルという看板を使っている人が、自分の固定概念から自由になっていない、またその固定概念を絶対正しいという立場から、それを受け入れない人を批判する一方という、非寛容がまかり通っているということですね。
書かれていること全てが納得出来るかというと、私はそうではありませんが現在の日本のいわゆるリベラルの看板を掲げている人の欺瞞を感じるのであれば、目を通すのも悪くはないかと思えます。
単純に極左が自分を偽ってリベラルを自称しているだけという結論を出しての極左批判と受け止めても良いかもしれないですし、自分が正義と定義づけして相手の立場を何も考えていないというのは実はそれだけで差別主義者であると思っておけばいいのかもしれないですが。
はじめに 「リベラル」が嫌いなリベラリストへ
Part0 「リベラル」の失敗 「沖縄『集団自決』裁判」とはなんだったのか
Part1 不思議の国のリベラリズム
Part2 日本人の働き方はこんなに変
Part3 テロと宗教
Part4 素晴らしい理想社会
Epilog まっとうなリベラリズムを再生するには
私は社会思想であるとか、政治思想に関する学問的バックボーンは持ち得ていません。
ですので、それが実際に当たっているかどうかは別として私が思う本来のリベラルという立ち位置ってこういうものだろうなとぼんやりと定義づけしているのは、本当の意味での中道なのではないかなと。
リベラルというのは元々、既成概念からの逸脱して自由になるということを出発点としてるはず。
身分や人種、宗教や性別などなど伝統的に価値固定されたものに対して、その伝統は本当に根拠のあるものなのか、価値固定主義は誤りなのではないか、そのしがらみから自由になって固定化された価値観以外の生き方を認められてしかるべきでは無いのかというものなのではないかと。
そういった出発点を持っているからこそ、価値固定主義、単純な二項対立構造によって生まれながら善悪が決まっているようなものへの反発が強いはず、ある意味単純な二項対立構造こそを逸脱し自由な思考を得る物がリベラルであると勝手に解釈しています。
しかし、どうにも現在リベラルがうさんくさいものとして扱われている裏側には、リベラルの看板を掲げて主張する人が、単純な二項対立構造であるとか、単純な善悪価値固定主義に陥っているのではないかと思える事例が山ほど出てきているのではないか。
例えば人種差別、人種差別は決して許してはいけないものですが、差別による被害者と加害者の立場を考えるときにこれを安易に被害者を善、加害者を悪という単純な二項対立構造に組み込むと新たな人種差別を生み出す事になる。
被害者は被害者であってそれだけで善という立場を得るわけではないですし、加害者は加害者であったというだけで、存在を全否定されたり子々孫々悪のレッテルを背負い続ける必要は無い。
しかし、単純な二項対立構造は分かりやすく力強いので安易にこの構造に全てを組み込もうとしてしまいがちですし、いわゆるリベラルは差別者サイドに立つので一方的に肩を持ちがちであり、例えば単純に性格破綻者がいたとして皆から嫌われたとする。
その場合伝統的に差別される側出身者が差別してきた側出身者に嫌われた場合、性格破綻者だから嫌われたという事実よりも、出自が原因だから嫌われたから差別だと話をすり替えることが可能になり、またそれに対する公正な検証よりも、人種差別として扱った方がより優秀なリベラルであるかのような錯覚に陥りがちで、事実関係よりも持論の方が大事という新たな固定概念が出来上がり、リベラルという看板を使った善悪価値固定主義が出来上がり、意味が分からなくなるという残念な結果を招いてしまう。
そこらへんからも、本来のリベラルというのは、単純な善悪価値固定主義から自由であるためには常に自己批判をし続けなければいけない、自分の善であるという判断は他者に受け入れられない事もあり得るし、また他者が自分と違う善の価値観を持っていても、それを真っ向から全否定すると言う事は自由を押しつけ、相手の自由を奪うと言う事になるという事は自覚し続けなければならないという、ある意味不自由なものと自覚しなければならないもの。
しかし、どうにも現在のリベラルの看板を掲げている人は、他者の思考を全否定する自由だけは行使するけれども、他者が自分の思考を否定する自由は認めようとしないという保守的な傾向が強くなっていて、なんだかなぁと。
前置きが長くなりすぎましたが、本書の感想の方に戻りましょう。
本書は基本敵には週刊プレイボーイに連載している社会問題の時事批評に、書き下ろしを加えてタイトルに合せた形でまとめたものであり、主に日本のリベラルが世界基準とはかけ離れているという指摘するものになっています。
私が本来のリベラルというのは中道を意味するものなんじゃ無いのかというのに対し、日本の場合リベラルという看板は中道を意味するのではなく左翼や極左を意味する物になっていて、正確な検証よりも都合の良いところだけ抜き出したり、自分が悪だと定義した相手であればどれだけ誹謗中傷したとしても構わないとする差別主義が根強く残っているというのがある意味全てですね。
労働問題であれば、正規雇用と非正規雇用、サービス残業という奴隷契約などリベラルを掲げるマスメディアが批判すべきものが、実は自分達も同じ差別をして放置している、それをよしとしているダブルスタンダードであって、情報発信側がこれじゃあ説得力もへったくれも無いよねと。
憲法解釈にしてもリベラルこそ憲法9条改正を叫んで、自衛隊というあやふやな立場にしておくのではなく、軍としてしっかりと存在させて、軍の意義として何よりも国民を守るものであると明示させるべきなんていうのも出てきますが、まぁここら辺も日本のいわゆるリベラルの看板を使っている人からは出てこないものであったりしますしね。
結局リベラルという看板を使っている人が、自分の固定概念から自由になっていない、またその固定概念を絶対正しいという立場から、それを受け入れない人を批判する一方という、非寛容がまかり通っているということですね。
書かれていること全てが納得出来るかというと、私はそうではありませんが現在の日本のいわゆるリベラルの看板を掲げている人の欺瞞を感じるのであれば、目を通すのも悪くはないかと思えます。
単純に極左が自分を偽ってリベラルを自称しているだけという結論を出しての極左批判と受け止めても良いかもしれないですし、自分が正義と定義づけして相手の立場を何も考えていないというのは実はそれだけで差別主義者であると思っておけばいいのかもしれないですが。
はじめに 「リベラル」が嫌いなリベラリストへ
Part0 「リベラル」の失敗 「沖縄『集団自決』裁判」とはなんだったのか
Part1 不思議の国のリベラリズム
Part2 日本人の働き方はこんなに変
Part3 テロと宗教
Part4 素晴らしい理想社会
Epilog まっとうなリベラリズムを再生するには
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